郷土再発見! はるかの歴史散歩

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第33回 郷土再発見!はるかの歴史散歩[幕末の福岡]

●取材協力・写真提供:福岡市博物館、鳥飼八幡宮、福岡市
●参考文献:平野二郎國臣(平野神社)、非運の藩主 黒田長溥(柳猛直)

江戸時代末期、坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など、多くの若者たちが、国の行く末を憂い、行動を起こしました。そしてここ福岡にも、同じように新しい国を夢見て奔走した人々がいました。今回は、そんな福岡の幕末期に想いを馳せ、西公園から地行周辺を散策してみました。

幕末の福岡

1853(嘉永6)年、アメリカやロシアなど、次々に開国を迫る列強の勢力に弱腰な幕府。国の危機を感じた諸藩には攘夷の機運が高まり、 幕府への不信感から勤王、倒幕思想が広がりました。幕府擁護の福岡藩にも勤王思想を唱える家臣が増えるなど、時代の波に翻弄されていきました。


バスガイドさんもよく使う有名な歌。鹿児島の伊集院にも歌碑が建てられているそうです。(写真は平野神社)

我胸の燃ゆる思ひ

 大濠公園から西公園までまっすぐ通じる参道を光雲(てるも)神社へ向かって上って行くと、その左側に銅像が建つ広場が見えてきます。 「平野二郎國臣(ひらのじろうくにおみ)の銅像」です。青空の下、まっすぐ東を向いた國臣像は何を思っているのでしょうか。  平野國臣(二郎)は、1828(文政11)年、福岡藩武術師範・平野吉蔵能栄の二男として地行下町(福岡市中央区)に生まれました。 18歳で福岡藩に仕官し、普請方手附として太宰府天満宮・楼門の修繕などをしました。その後、江戸や長崎での勤務を通じて、 欧米列強の先進文化を目の当たりにしたことで、日本の存亡について考えるようになりました。1857年正月、国の臣として身を抛つ覚悟で、 名を「國臣」に改名。欧米列強と対等な国となるために、封建的な幕藩体制を廃し国家統一を目指す『倒幕論』を確立し、福岡藩を脱藩。 その後、藩や幕府からも追われる身となり、頼りとした薩摩藩にも受け入れられず、詠んだ歌が、かの有名な「我胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 烟(けむり)はうすし 桜島山」でした。

福岡市博物館

黒田家ゆかりの品々をはじめ、幕末期の歴史資料を収集し、調査研究する福岡市博物館。常設展示室では、平野國臣や野村望東尼など、 幕末の福岡で活躍した人々を深く知ることができる貴重な品々を見ることができます。


所/早良区百道浜3-1-1
電/092-845-5011
営/9:00~17:00
休/月曜、年末年始(12/28~1/4)
料/常設展示室:一般200円、高大生150円

鳥飼八幡宮 平野國臣先生資料館

地行に生まれ、鳥飼八幡宮にもよくお参りをしていたという平野國臣。社務所には「平野國臣先生資料館」があり、着物や羽織、水筒、 さらに獄中で思いをしたためた「紙縒文字」の書状などの品々を見せていただけます。


所/福岡市中央区今川2-1-17
電/092-741-7823
料/入館無料 ※来館前に要電話連絡

佐幕と勤王

西公園に建つ平野二郎國臣の銅像は1964(昭和39)年の平野國臣百年祭で再建されたものです。

当時の福岡藩主は黒田長溥(ながひろ)。外国の進んだ文化を積極的に取り入れる蘭癖(らんぺき)大名と呼ばれ、鎖国制度を終わらせ積極外交を行えば国も富むという開明的な考えの持ち主でした。 しかし藩の基本姿勢は佐幕(幕府支持)の立場から、勤王派の弾圧(乙丑の変)を断行し、多くの優秀な人材を失ってしまいます。その中に、長州征伐の中止に尽力した加藤司書や、 薩長連合のきっかけをつくった月形洗蔵という筑前勤王党の中心人物もいました。月形らが斬首された枡木屋の獄(唐人町)には、國臣も11ヶ月の間収監されていました。 獄中で墨と筆を願ったものの聞き入れてもらえず、なんと「落し紙」を縒って作った紙縒文字で和歌や書状を記したそうです。 その一枚を鳥飼八幡宮にある平野國臣先生資料館で見せていただきました。國臣の想いの強さが伝わってくるような、それは芸術品と言えるほどのものです。 やり方は違っても、それぞれの立場で国の在り方を考え、献身的に行動した人々の存在を忘れてはならないと思いました。

平野國臣生誕の地近く、1952年に創建された平野神社。

國臣は「禁門の変」の大火の中、京都・六角牢にて斬られ、37歳で生涯を終えました。(福岡市博物館所蔵)

書本も筆もない獄中、國臣はひたすら紙縒で和歌や論文をしたためました。(福岡市博物館所蔵)

唐津街道沿いの地行下町に生まれた國臣。現在の中央区今川1丁目付近になります。

福岡藩11代藩主・黒田長溥は、薩摩藩主・島津重豪の子で、斉彬の大伯父でした。(福岡市博物館所蔵)

西公園・荒津山山頂に建つ加藤司書の歌碑。家老職にありながら勤王を唱える稀な人でした。

散歩の寄り道

 

唐津街道の沿線で、足軽屋敷が多く置かれ、福岡城に勤める武士や町人たちで賑わっていた唐人町周辺。 唐人町商店街の北側には、福岡藩藩校・西学問所「甘棠館」がありました。儒学者で医師でもある亀井南冥が初代館長となり、 優秀な人材を輩出しました。唐人町商店街の西の突き当たり、善龍寺の山門に掲げられた「瑞雲」の扁額は、亀井南冥の書と云われています。 

[ 高宮はるか ]
西鉄広報イメージキャラクターとして、テレビCMやポスター等に登場。
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